ダーク ピアニスト
前奏曲9 三日月の記憶



風が彼らの頭上を渡って行った。
それをなぞるように筆がキャンバスの上を撫でた。
淡い色彩の空は暮れかけて、視線の先から濃い霞みが掛かり始めた。その一瞬を捕らえて、すっと筆が動く。その延長線上に本物の空が続いていた。

もう半日も、男はそこに座って絵を描いていた。
河畔の風が気持ちよかった。丈の高い緑は歌うようにそよいでいる。
しばらくの間、ルビーはそんな男の脇に腰掛けてキャンバスを覗いていたが、やがて、鳥の声に誘われるまま、風を追って駆け出した。

絡み付く草と戯れたり、綿毛を見つけて飛ばしたりして無邪気に微笑む。
男は、そんな彼の透ける輪郭を筆で捕らえようとしていた。が、結局キャンバスの上には何も描かれないまま時が過ぎ、そこには淡い緑の草原と空だけが残った。

 汚れっちまった魂は
 沼の底から空を見る
 光の射さない空を見る
 鳥の声さえ聞こえない
 あなたの声さえ聞こえない

(何故思い出す? )

 汚れっちまった魂は……

筆の毛先が割れて、二つのラインが光を引いた。
(もう、ずっと昔のことなのに……)
男が筆を置き、顔を上げると、さっとルビーが駆けて来て訊いた。
「できたの?」
「いや、今日は筆が乗らねえ」
「ふうん」
ルビーは少しだけ首を傾けて彼方に霞む森を見つめた。

「ねえ、アルは自分が生まれた時のことを覚えてる?」
唐突に、ルビーがそんなことを訊いた。
「おまえはどうなんだ?」
男は逆に訊き返した。
「もちろん覚えてるよ。でも、エレーゼはまるで信じてくれないんだ」
男は黙ってその顔を見つめた。繊細な光の渦が幾層にも分かれた彼の無意識を浮かび上がらせる。

「そんなの覚えている筈がないって言うんだよ」
ルビーは不満そうに唇を尖らせた。
「どうせ、あとから誰かに聞いた話だろうって……」
(僕はちゃんと覚えてるのに……。あの時、医者が何を言ったのかも……」
ルビーはパレットの上に乗っていた赤い絵の具に指を押しつけて、その指を自分の唇と頬に押し当てた。白い頬に赤い花びらが散った。

「僕は、生まれた時には死んでたの。息をしてなかったんだ」
彼は少し悲しそうに微笑して続けた。
「だから、医者は慌てて僕を叩いたり、注射をしたりしたんだ。痛くはなかったけど、そのせいで、僕は医者が嫌いになったんだと思う」
黒い鳥が夕日に向かって飛んでいる。そのシルエットを彼は真剣な表情で見つめていた。

「何故?」
アルモスが訊いた。
「だって、医者は僕を殺そうとしたんだもの」
怒りに耐えるように声が震えた。

――酸素が脳に回るのが遅すぎたのです。もし、このまま生き伸びたとしても……

その声を追い払うようにルビーは耳を塞いだ。
「何故そんな風に思う?」
絵の具を片付ける手を止めて、男が訊いた。
「聞いてしまったから……」
(ずっと見ていたんだ。天井の上から……。だから、医者が何をしたか全部知ってる。そして、僕の親達に何を言ったのかも……)

 汚れっちまった魂は
 それでも
 沼の底から光を放つ
 汚れっちまった魂は
 ほんとは何より美しい

「そいつは幽体離脱ってやつだな。おまえはそれを上から見てたんだろ?」
アルモスが言った。ルビーは呆気に取られたように目を見開いて男を見つめた。それから、首を激しく振って頷いた。
「そうだよ。そうなんだ。どうしてわかったの?」
(誰も信じてくれなかったのに……)
その目を覗きこんでルビーが訊いた。

男は道具箱に画材を入れるとパチンと留め金を掛けて言った。
「おれも同じだからさ」
「ほんとに? アルも覚えてるの?」
「ああ……」
男は頷くとキャンバスを持って立ち上がった。

「ねえ、教えてよ。アルは何処で生まれたの?」
「馬小屋」
ぶっきらぼうに男は言った。
「馬小屋? イエス様みたいに?」
ルビーが目を丸くして見上げた。
「ああ。だが、キリストは神の子で、おれはただの娼婦の子だからな」
そう言って自嘲する男の横顔に、淡いオレンジの光が反射した。

「娼婦って?」
ルビーが訊いた。
「男に春を売る商売をしている女のことさ」
「春……?」
「ギルに訊いてみな」
「わかった。そうするね」
ルビーは指に付いた赤い絵の具を光に翳した。

――こんな場所で産まれたあんたを、母さんはちっとも不憫だなんて思わないよ

赤ん坊は月の光に照らされてぬめぬめと輝いていた。
女の肌は白かった。血に塗れたままの赤ん坊を抱き締めて、母はその唇に洗礼のキスを与えた。

――愛しているよ

 汚れっちまった魂は
 実は一番美しい

女が歌う。

 汚れっちまった魂は……

敷き詰められた藁の中、夜に鳴く鳥の声と、泣き叫ぶ赤ん坊の声が重なる。

(ほんとは一番美しい……)

「だが、いい女だったよ」
アルモスが呟く。
「実にいい女だった……」
自分はそんな彼女を助けようと、月光と共に小屋の窓から忍び込み、そっと赤ん坊の身体に入り込んだ魂だったのではないかと夢想した。

「美人だったの?」
ルビーが訊いた。
「ああ。何てったって心がきれいな女だった……世間じゃ誰も認めやしねえけどな」
「お母さんのことが好きだったんだね」
「まあな」
男は僅かに目を細めると遥か地平の空を見つめた。
「僕もだよ。僕が生まれた時、母様だけが喜んでくれたんだ」

――お願い。その子を死なせないで。必ず育てます。だから……

「長くは生きられないって医者が言ったの。歩けるようにはならないかもしれないって……。でも、母様は僕を育てるって言ってくれたんだよ。だから……」
嘘を言っているとは思えなかった。彼は確かにそう聞いて、その光景を見たのだろう。男が射し込む月の光を見たように、ルビーもまた命の在り方を見たに違いなかった。
「そうか」
男は静かに頷いて、そっとルビーの頭を撫でた。
「母親ってのは偉大なもんだ」
男のごつごつとしたその手を掴んでルビーが訊いた。

「今は何処にいるの?」
「死んだよ。おれが13の時」
「どうして? 殺されたの?」
身を乗り出してルビーが訊いた。
「いや、病気さ。胸を病んでたんだ」
「そうなんだ……」
捨て置かれた金属パイプが足元に転がる。その空洞に風が流れて、ヒュッと高い音が響いた。

「だが、おれはタフだからよ。こうやってのらりくらりと生き伸びて来たってえ訳さ」
男は豪快に笑うと、邪魔なパイプを脇にどけた。
「辛くなかったの?」
「ま、世の中ってのはそんなもんだろ?」
(神はいつも、理不尽な運命に泣く者の声を聞かない)
「……」
ルビーは男の心理を透かして見るような目で見つめた。
「僕は……」
そう言い掛けて口を噤む。華奢で小柄な彼のシルエットが夕焼けに染まった。それは優美さと異形の間を揺らめく、儚い陽炎のように見えた。

「僕の脳は死んでるんだって……」
ルビーが言った。
「本当なら、もう、とっくに死んでいたんだ。けど、僕は生きた。医者は奇跡だって言ったよ。でも……」

――消えちゃえ!
――役に立たないおまえなんか……

「みんなが僕を馬鹿にするんだ。病院や学校で……みんな酷いこと言うんだ」

――生まれて来なければ……

「だが、親は喜んでくれたんだろう?」
「そうだね。でも……僕は父様を殺した」
「……」

 汚れっちまった魂は……

「父様は母様を愛してた。そして、僕のことも……」

――おまえは私の誇りだ

「なのに何故……? わからないんだ、僕には何一つ……わかることがない」
彼はじっと自分の手のひらを見つめ、それから強く握って首を振った。
「後悔なんかしてないよ。けど、うまく言えないんだ。脳が死んでるから? 僕が他人と違うから? 変わっているから? それとも、魂が汚れてしまっているから? 教えてよ! ねえ、教えてよ、アル」
「それは……」
男はじっとルビーを見つめた。その漆黒の瞳を……傷付いた魂の叫びを……。正面から受け止めなければと思った。

「それでも、おまえはそこにいて、今という時間を生きてる」
「うん。そうだね……」
彼は頷くとアルモスの手を取って歩き始めた。男の手に温もりが伝わった。

晩餐会では、その手は至福の音楽を奏でた。が、それは同時に、死の宣告を齎す旋律をも奏でるのだ。好むと好まざるとに関わらず……。
その手で命を選別する運命の子ども……。

(皮肉なもんだな)
男は思った。権力や宝飾で着飾った人間ほど魂は荒んでいる。醜い怪物と化している場合も珍しくはない。だが、ルビーはそういった連中とは明らかに異なっていた。
人の命を奪うことを生業としていながら、彼の魂はまるで穢れてなどいなかった。少なくとも、アルモスが描くキャンバスに心の歪みを映し出すことはなかった。
「こんなことは初めてだ。いや、おれが出会った者の中では二人目か」

その最初の人間は彼の母親だった。母は決して上品な女ではなかった。
しかし、客に身体を売ったとしても、心はきれいなままだった。その原体験があるからこそ、彼は世知辛い世の中を渡って来られたのだ。

(いや、もう一人。天使を見たな)
消え入りそうな黄昏の光の中で男はその印象を思い出した。
(あれは本当に天使だったな)
彼はほとんど人物画を描かない。そこにその人間の本性を見てしまうからだ。
それでも、子どもの頃には母の絵をよく描いた。

――すごいねえ。まるで写真のようじゃないか

感嘆したように母が言った。

――アル、おまえはきっとすごい画家になれるよ

そして、大人になった彼は本当に画家になった。しかし、人物画は描かない。たまに依頼が来ても、いつも契約はうまくいかなかった。依頼主が怒り出してしまうからだ。アルモスもまた人間の心を測るスケールを持っていた。
そんな彼が一度だけ人物を描こうと思ったことがある。それは子どもだった。
子どもの心は皆澄んだ天使のようだと世間では言うが、現実は違う。子どもといえども高貴な魂を持った者などめったにいない。大抵はどこかが歪んでいるものなのだ。
そんな中、アルモスは偶然、森の中でその子ども達を見つけた。

(天使……)
そう思った彼は時間も忘れ、夢中で描いた。
やがて日が暮れ、いつの間にか子ども達の姿は見えなくなっていた。
子どもは、とっくに天へ帰ってしまったのかもしれない。それとも、初めからそれは存在しない幻であったのか。
その少年は見つからなかった。

もしも、それが天使だったとするならば、この世ではもう、二度と出会うことはないだろう。アルモスはその絵を封印した。
いつか、自らの魂が精進し、天使と対等に話せるようになるまで……。

そうして、再び放浪の旅を続けていた時、ルビーに出会ったのだ。
この者の背中には漆黒の羽が生えている。アルモスにはそう思えた。繊細で美しく、光によって色を変える蝶の羽が……。
ルビーは、音楽を奏でるように饒舌には話せない。しかし、言葉にならないその内面こそに、彼の真実が隠されている。その本質を、アルモスは描きたいと願った。
それは神の意思かもしれないのだ。母は失われ、天使は逝ってしまった。ならば、三度目はない。注意深く耳を欹て、すべてを聞き漏らすまい。男はそう決意した。

 穢れっちまった魂は……

風がさわさわと草の葉を揺らした。
「ルビー」
小道の向こうから銀髪の男が現れた。
「ギル!」
漆黒の蝶がうれしそうに飛んで行く。緑の葉の中で戯れる二つの影。アルモスはふっと足を止めた。
「ほう」
男は納得したように目を細めて彼らを見つめた。そこには長い緑の影がたなびいていた。

「ルビー、上着も着ないで……」
銀髪の男は自分の上着を脱ぐと、そっとルビーに掛けてやった。
「平気だよ。風が気持ちいいんだもの」
ルビーはそれを男に返して言った。ギルフォートは黙って受け取るとコートを腕に掛けて持った。
「アルとお話してたんだ」
うれしそうに言うルビーの肩越しに、ギルフォートはちらと視線を向けたが、特にコメントはしなかった。

「それで、もう話は済んだのか?」
ルビーに訊いた。
「うん」
「なら、帰るぞ」
踵を返す男のあとを追って行く。いつもと変わりない光景だった。が、樹木の間から射し込んだ光が、連れ立って歩く二人の間を照らした時、それを見送ろうとしていたアルモスの中に猛烈な芸術の炎が燃え上がった。彼は再び画材を広げ、キャンバスに向かった。

「ねえ、ギルは自分が生まれた日のこと、覚えてる?」
ルビーが訊いた。
「生まれた日?」
「そうだよ。アルとそんな話をしたんだ」
きらきらとした目を向けてルビーが男の周りを飛び回った。
「ねえ、覚えてる?」
「いや……」
男の返事にルビーはがっかりしたように足を止める。
「だが……」
男も足を止めて言った。

「弟が生まれた朝のことは覚えている」
その目は遠い過去を見つめていた。
「弟がいるの?」
ルビーが訊くと、男は視線を足元に戻して言った。
「いや。今はもういない」
「いないの?」
男が頷く。先程まで空を賑わせていた鳥達の姿もない。辺りは静寂に満ちていた。沈んだ太陽の微かな残り火が、ゆっくりと群青の闇に溶けて行く……。

「それで、おまえは生まれた時、祝福されていたのか?」
男が訊いた。
「多分……ね」
ルビーはそう言うといきなり闇の中へ駆け出して行った。

――きっとこの子を育ててみせます

(母様がああ言ったんだもの)

――だから、お願い! この子を殺さないで!

不意に何かに躓いて倒れそうになり、両手を突いた。
「おい、大丈夫か?」
男が歩み寄って訊いた。
「うん。平気」
そう言って振り向くと、ギルフォートの背後に月が出ていた。その柔らかな光に照らされて、男の輪郭が輝いて見えた。

「僕ね、みんな知ってるんだ」
ルビーが言った。
「ほんとだよ。ぜんぶ上から観てたんだ」
ルビーは四足の獣のような目で男を見上げて言った。
「ぜんぶだよ。信じない? でも、本当に……」

「立てよ」
銀狼が言った。
「……」
「手を貸して欲しいのか? それとも、何処か怪我でもしたか?」
「ううん」
ルビーは軽く首を振るとぎこちなく立ち上がって、掌で洋服に付いた土を払った。

「不思議だね。立ち上がれば月に手が届きそうだったのに、僕が立ったら遠くに行っちゃった。月は僕と鬼ごっこでもしているのかしら?」
「怪我がないなら、早く来い」
ギルフォートは構わず歩き出す。それを追ってまたルビーも歩き出した。
「僕はね、夜に生まれたんだ。外は見えなかったけど、きっと今日みたいな月が出ていたんだと思う。ねえ、月にはきれいな女の人が住んでいるんでしょう? 僕の母様も住んでいる?」
「死者の国でもあるならな」
男の返事にルビーは満足したように微笑した。

「死者の国か。そうだね。きっとあるよね。天国のようなやさしい国が……。ねえ、天国は月にあるんだと思わない? そうしたら、いつもみんなのことを見ていられるもん。そうしたら、寂しくないもの」
男は何も言わず月を見つめた。
遠ざかる二つの影を見送るアルモスもまた、同じ月を見上げて強く頷いた。